酒井肥前守屋敷跡(江東区毛利)
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西・北。
東・南は広大な田んぼ。
左・西、マンション半ばから先にある病院まで、曽根内匠下屋敷跡。
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2012年06月15日 00:16
●「酒井肥前守」――御書院番、旗本。
本郷丹後守の古地図あり。後か。
※ここの「毛利」は大江毛利家ではなく、紀州商人、毛利藤左衛門が新田開発をした土地であることから。
酒井肥前守の血統は追っかけられず。三河松平同族の酒井以外にも酒井サンいくつかいるし。官途名だろうし。ありえそうなのは左衛門尉家の分家……(≧〜≦)=3
※書院番――
将軍直属の親衛隊。
慶長10(1605)年設立。水野忠清、青山忠俊、松平定綱、内藤清次が番頭に任命された。
当初四組、後に六組まで増員、構成される。また親衛隊という性格から、西丸が使用されている時(大御所もしくは将軍継嗣がいる)は、西丸にも本丸と別に四組が置かれる。
一組は番士50名、与力10騎、同心20名の構成からなる。番頭は、その組の指揮官である。朝番・夕番・泊番があり、設立当初は白書院の北に駐在した。
大番と同じく将軍の旗本部隊に属し、他の足軽組等を付属した上で、備内の騎馬隊として運用されるが、敵勢への攻撃を主任務とする大番と異なり、書院番は将軍の身を守る防御任務を主とする。
小姓組とともに「両番」と称せられ、有能な番士には出世の途が開かれていた。
※1600年の関ヶ原の戦いで西軍に与し、戦後 改易されて浪人となっていた立花宗茂が、1604年に徳川家康に召しだされ、宗茂は書院番頭に任じられ、5千石で遇されている。
アルバム: 東京都4江東区/武州江戸
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