雲光院(江東区三好)阿茶局墓
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2011年11月27日 21:05
●阿茶局――
雲光院(うんこういん、弘治元(1555)年〜 寛永14(1637)年は、徳川家康の側室。名は須和。号は阿茶局、民部卿、神尾一位、一位尼。父は飯田直政。
はじめ神尾忠重に嫁いで一男をもうけるが、夫の死後は家康に召された。戦場にも幾度となく家康に供奉し、小牧・長久手の戦いの陣中で一度懐妊するも流産し、家康との間に子供はない。
西郷局没後に徳川秀忠、松平忠吉を養育している。
才知に長け、奥向きの諸事一切を家康より任されており、大坂の役の際には和議の使者を務めた。
家康死後、他の側室とは異なり彼女のみその才を惜しまれ、遺命により剃髪をしなかった。
徳川和子入内の際に守役を務めた功により、後水尾天皇(ごみずのお)より従一位を賜る。
秀忠の没後に出家して雲光院と号する。
※おまけ・松平忠吉――
東条松平家第4代当主、尾張国清洲藩主。
徳川家康の四男、母は西郷局。養父は松平(東条)家忠。幼名は福松丸。官位は下野守、薩摩守を経て従三位左近衛権中将。徳川秀忠の同母弟。松平広忠、於大の方の孫。徳川四天王 井伊直政の娘婿。
遠江国浜松城下(静岡県浜松市)生まれ。天正9(1581)年東条松平家の松平家忠が病死した後、その家督を継いで三河国東条城1万石を領し、名を松平忠康と改める(祖父広忠、父家康の一字を戴く)。天正10(1582)年、駿河国沼津城4万石に転封。
文禄元(1592)年、武蔵国忍城主となり、元服して松平忠吉と改める(家康関東移封)。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで初陣を飾り、福島正則と先陣を争い、島津豊久を討ち取る等の功を挙げる。戦後、尾張および美濃で清洲52万石を与えられ左近衛中将に任官。
慶長12(1607)年、関ヶ原の戦いの折に負傷した傷がもとで、江戸で死去、享年28。法号は性高院殿憲瑩玄伯大居士。奇しくも、義父・直政も関ヶ原の戦いでの傷がもとで死去している。
忠吉には嗣子がなく、清洲藩は弟の五郎太(義利、徳川義直)が継ぐ。
同母兄の秀忠は彼の死を非常に悲しんだと言われている。
Albums: 東京都4江東区/武州江戸
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