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11.02.19.豊国山 回向院・小塚原刑場跡(荒川区南千住)橋本左内墓所

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写真: 11.02.19.豊国山 回向院・小塚原刑場跡(荒川区南千住)橋本左内墓所

写真: 豊国山 回向院・小塚原刑場跡(荒川区南千住)吉田松陰墓 写真: 豊国山 回向院・小塚原刑場跡(荒川区南千住)橋本左内墓所

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2011年02月24日 05:49
家紋。“橋本家”は、抱き沢瀉・実付き三つ柏・隅切り角に釘抜き・陰丸輪に四つ目結・三つ巴のいずれか……?

●家紋──
江戸時代は、天下泰平、とは言い難いとこもあるけれど、武士(武将、大名)の大きな戦はほぼなくなり、合戦における敵味方の区別のように実用的だった家紋の役割は変化して、一種の権威の象徴となっていった。
士農工商という身分が明確に分けられていた階級社会で、家紋の用途は相手の身分や家格に応じて自分や家族の身なりを正すためであったり、家の格式を他人に示したりする、相手の身分を確認したりする目的に変化した。
一般庶民も広く家紋を所有し使用している。百姓、町人、そして役者、芸人、遊女などといった社会的には低い階級に位置づけられた者までが、自由に家紋を用いた。これは貴族などごく限られた者しか家の紋章が許されないヨーロッパ各国とは対照的である。
一般的な百姓・町人は苗字の公称はできなかったが、家紋を用いることは規制されてなかったため、家・一族の標識として機能していった。
さらに「羽織」や「裃」など礼装・正装の衣服に家紋を入れる慣習が一般化したのはこの時代。元禄に入ると、人々の生活は次第に華やかなものになっていき、家紋を持っていなかった人々も家紋を必要とする機会が生まれ、豊臣秀吉の吉例によって「五三の桐」紋が下層庶民に好まれた。そして一般の家紋も装飾化され、武家や庶民が用いる家紋が華美・優美な形に整っていった。そのため、左右や上下対称になった家紋や、丸で囲んだ家紋が増え始めたのはこの時期と考えられている。

●橋本姓──
橋のたもと、橋詰と同意。橋本氏は全国的に分布しているが、西日本のほうが多い。
和泉国日根野郡橋本の発祥が、橘姓の和田氏族と楠木氏族の橋本氏。和田・楠木氏族の橋本氏は、南朝の勤皇党として尽くし、湊川の敗戦後は関西地方の各地に散っていった。楠木氏族・橋本氏は、その一部が上野国に移って新田義貞に属したのち、由良氏に仕えた。上州に今も残る橋本氏はこの系統とされる。また上州には、清和源氏新田氏族大館氏の流れの橋本氏もある。尾張国中島・海部郡の豪族で、信長・秀吉に仕えた橋本氏も楠木一族の流れだという。
  清和源氏足利氏流桃井氏族は、南朝に味方して新田義貞の鎌倉攻めに参加したが、北陸で戦った一族が越前に土着した。その子孫に幕末の志士橋本左内が出ている。彼は桃井義胤の後裔橋本直安十五世の孫にあたるようだ。
他流では、下総国相馬郡発祥の桓武平氏将門流相馬氏族、岩城国田村郡橋本の中世の豪族田村氏の支流があり、それぞれ奥州各地に根付いた。ほかに山城国綴喜郡橋本の清和源氏支流、因幡国邑美郡橋本の山名氏系、備前の豪族日下部氏族、美作国英田郡の三星城主・橋本氏などがある。
公家では、藤原北家西園寺家流の橋本氏が知れられている。
代表家紋は、多くが釘抜き、三つ柏、目結、横木瓜であるが、清和源氏系が抱き沢瀉、唐花、十六葉菊を使用している。
※他所様コピー〜アレンジ。あいすみませぬ(( _ _ ))


2013年01月07日 11:01
士農工商、氏姓についてはアメブロをご照覧あれ → http://ameblo.jp/emeth-spriggan/

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