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香林院(渋谷区広尾)

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写真: 香林院(渋谷区広尾)

写真: 秋葉権現(霊泉院。広尾5丁目) 写真: 香林院(渋谷区広尾)

mixiアルバム「祥雲寺 ・黒田長政(渋谷区広尾5丁目)」コピペ――
2013年05月21日 23:11

●松平縫殿頭――
大給縫殿頭家・松平奥殿家・奥殿藩松平家・大給松平家傍流

大給松平家は、松平家康の5代前の当主 親忠の次男、乗元から始まる一族。代々松平宗家に譜代家臣として仕えた。
大給松平宗家5代 真乗の次男 真次は、大坂の役の戦功等で加増を受ける際、知行地として先祖ゆかりの三河国加茂郡大給(現 愛知県豊田市)を望み、6000石の旗本としてこの地に陣屋を構えた。

一家として独立しており、大給松平宗家の支藩の扱いはない。

1、乗次(のりつぐ)、従五位下・縫殿頭
真次嫡男。
真次は男子に恵まれなかったため、養嗣子を迎えていた。
正保3(1646)年、真次が死ぬと家督相続について争いとなった。結末は、3代家光の裁量で家督と4000石は乗次、3000石を養嗣子であった乗真(当家3代とは別人)へ分与と決まった。
その後地道に功績を上げ、加増されていく。
貞享元(1684)年、大坂定番に任じられるまでになり、一挙に1万石の加増となった。
立藩。
・三河国大給藩

2、乗成(のりなり)、従五位下・石見守、玄蕃頭、縫殿頭
3、乗真、従五位下・縫殿頭
正徳元(1711)年4月28日、藩庁を領内の奥殿に移転。大給は山間にあり、交通の便も悪かった。
→奥殿藩

4、盈乗(みつのり)、従五位下・縫殿頭
5、乗穏(のりやす)、従五位下・石見守
6、乗友、従五位下・兵部少輔、大隈守
7、乗尹、従五位下・対馬守、主水正
永井尚志の実父。
8、乗羨(のりよし)、従五位下・縫殿頭
9、乗利(のりとし)、従五位下・石見守
10、乗謨(のりかた)、従五位下・兵部少輔、縫殿頭、正四位下
→田野口藩(龍岡藩)



※大給恒(松平乗謨)――
天保10(1839)年11月13日、大給松平縫殿頭家9代 乗利の長男として生まれる。
嘉永5(1852)年3月、父の隠居により家督継承。
同年6月、竹橋御門番。
嘉永6(1853)年、ペリー来航。これに触発され、軍備増強・革新の必要性を悟り、農民兵を徴募、歩人隊を編成した。
同年11月、従五位下・兵部少輔。
万延元(1860)年、日光祭礼奉行。
文久3(1863)年1月、大番頭。8月、若年寄。
同年9月11日、藩庁を“また”手狭になった奥殿から、飛び地ではあったが領地の多くが存在する信濃国佐久郡田野口(現在の長野県佐久市)へ移転。ここに星形要塞 龍岡城を建設。

元治元(1864)年6月、開港問題などで松平慶永と対立。若年寄職罷免。
慶応元(1865)年4月、三河で信濃移転反対運動勃発。
同年5月、陸軍奉行として幕政復帰。
同年7月、若年寄次席。12月、若年寄。
慶応2(1866)年6月、老中。
同年10月、朝廷との交渉役を務める。
同年11月正四位下に昇叙。
同年12月、陸軍総裁。
(ここまで、藩政では、仏式軍制を導入した農民兵を基礎とする非常先手組を編成。また、殖産興業や蚕種・生糸の増産など、国力の増強にも努めている。)

慶応4(1868)年1月、戊辰戦争。陸軍総裁職辞任。老中辞任は2月になった。
苗字を大給と改める。
同年3月、幕府との訣別を表明するため上洛。新政府帰順を訴えるも、幕政の中心人物だったとして謹慎命令。
同年4月、新政府命で北越戦争に出兵。5月に謹慎処分が解かれた。のちに維新の戦功として賞典金2000両を下賜されている。
5月28日、竜岡藩と改名。
明治2(1869)年6月、版籍奉還。竜岡藩知事。
同年7月、恒と改名。

明治4年6月2日(1871年7月19日)、(竜岡藩の財政破綻のため廃藩を申し出て、廃藩置県直前に)廃藩となり知藩事免官。
明治6(1873)年、メダイユ取調御用掛。世界の勲章制度を調査。
明治17(1884)年、華族令。子爵。
明治21(1888)年、勲一等。
明治37(1904)年、従二位。
明治40(1907)年、賞勲制度確立。伯爵に。
明治43(1910)年1月26日死去。享年72。
危篤の報に、正二位叙任、勲一等旭日桐花大綬章が出された。



●縫殿寮――
ぬいどのりょう(ぬいどのつかさ)は、律令制における中務省管下の女官人事・裁縫監督機関。
宮中用衣服製造の監督、後宮女官の人事。
前身は内蔵衣縫造(きぬぬいのみやつこ)。「内蔵(うちくら)」は令制以前の皇室の倉庫で、くわえて後宮関係事務も皇室と関わりが深いことから、この機関は国家の統治よりも皇室の家政機関としての役割が大きかったと考えられている。

頭(従五位下相当)1名
助(従六位上相当)1名
允(従七位上相当)1名(のち大允と少允に分ける)
以下数多。

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