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久米川古戦場(東村山市)古戦場跡碑

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写真: 久米川古戦場(東村山市)古戦場跡碑

写真: 久米川古戦場(東村山市)古戦場跡碑 写真: 久米川古戦場(東村山市)八国山

バックは八国山。



――mixi記事コピペ――2016年11月08日 22:45

16.11.08.
小手指原古戦場→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000101155472&owner_id=32815602

(→wiki)元弘3年(1333年)5月、新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。新田軍は一族や周辺豪族を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて武蔵国へ進む。利根川を越えた時点で足利高氏(後に尊氏)の嫡子千寿王(後に足利義詮)が合流。外様御家人最有力者足利高氏の嫡男が加わったことにより、武蔵七党や河越氏ら周辺の御家人も加わり、新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。
さらに新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍を5月11日小手指原の戦いで撃破。幕府軍は久米川(現在の柳瀬川)で新田軍の南下を食い止めるべく、久米川の南岸(現在の東京都東村山市諏訪町)で迎え出た。
勝利した新田軍は、そのままの勢いで八国山に陣を張り、ここから指揮をとり麓の幕府軍への攻撃を開始した。現在、この陣の跡地は将軍塚と呼ばれている。小手指原で敗れた幕府軍にはもはや勢いはなく、戦いは終始新田軍優勢に進み、幕府軍は多摩川の分倍河原(現在の東京都府中市)にまで撤退した。
鎌倉幕府は小手指原・久米川の敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく、北条高時の弟北条泰家を大将とする10万の軍勢を派遣、分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流して合戦となった(分倍河原の戦い)。(←)

参考──
「武蔵の五遁」様→ http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-84.html


今日の巡廻マップ→ https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1GuljqI4yQEnnad5s_7SQchJajAo

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