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“信玄の隠し湯”平湯温泉“ひらゆの森”(岐阜県高山市)

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写真: “信玄の隠し湯”平湯温泉“ひらゆの森”(岐阜県高山市)

写真: 帰雲城(白川村) 写真: 高山城黄雲閣/雲龍寺鐘楼門(高山市)

――mixiよりコピペ――
2016年06月21日 14:26
飛騨・越中侵攻──
信濃全域の領国化のため、越後長尾氏 景虎(上杉政虎(輝虎))と争奪戦を繰り返す北信(奥信濃)の牽制のため、越後に接する飛騨・越中を手中にしようと動き出す。
(ここでは海も視野にあったのではないか。)
天文21(1552)年、分枝数多の美濃遠山氏の内訌に変化。苗木遠山氏が岩村遠山氏従属となる。こののちから晴信侵攻までに明智遠山氏も岩村遠山氏に従属となる。

弘治元(1555)年8月、木曽義康・義昌、降伏。
(「真理姫墓所・隠棲地(木曽町)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000095786561&owner_id=32815602
弘治元(1555)年9月、東濃へ初侵攻。
弘治2(1556)年、岩村遠山氏など本家筋は武田氏勢力下にある。遠山氏は駿河侵攻、飛騨侵攻にも従軍している。

※室町幕府下で飛騨守護であった京極氏宗家 高清は、応仁の乱と内訌による混乱で姉小路済継と三木直頼にその支配を奪われた。(永正年間?)
戦国時代に入り、(享禄〜大永〜天文〜)
大野郡白川郷には内ヶ島氏・照蓮寺、牛丸邑に牛丸氏、
吉城郡竹原郷には三木氏、高原郷に江馬氏、
高山盆地は、鍋山氏・飯山氏・岡本氏、(いずれも三木氏に滅ぼされる←)
古川盆地は南側(広瀬郷)を広瀬氏、北側を小嶋氏・牛丸氏・姉小路氏(姉小路三家←)ら小豪族が割拠する。

永禄年間初期、飛騨では三木良頼、広瀬宗城、江馬時盛の抗争が激化していた。飛騨国統一、さらには越中国へ北進をめざす三木氏は越後長尾氏へ助勢を依頼し、広瀬領へ侵攻。広瀬氏はこの脅威払拭を甲斐武田氏へ乞う。晴信は別の思惑でこれを了承する。景虎の北信出兵、関東遠征、上洛阻止。越中国一向宗とのつながりは景虎対策だ。
※飛騨国人は信濃でぶつかる武田・上杉(のちには織田も)の間で合従連衡(合縦連横とも記す)を繰り返していた。
※甲越戦役──
第1次合戦:天文22(1553)年
第2次合戦:天文24(1555)年
第3次合戦:弘治3(1557)年
第4次合戦:永禄4(1561)年
第5次合戦:永禄7(1564)年
※正室 三条夫人の縁(妹、教光院 如春尼)を頼りに、本願寺第11世 顕如へ越中での一揆を要請している。
顕如は、証如時代以来進めてきた本願寺教団門徒による一向一揆の掌握に務め、また細川管領家や京の公家との縁戚関係を深めている。経済的・軍事的要衝である石山本願寺を拠点に、畿内を中心に本願寺派の寺を数多配置して大名に匹敵する権力を有した。教団最盛期である。
(蓮如→『浄土教2(念仏2)「2」/消息/i』⇒ http://amba.to/1jVRr5N
(西本願寺・東本願寺→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2090579844&owner_id=32815602

永禄2(1559)年6月下旬、飯富源四郎昌景、馬場信房、甘利晴吉(信忠)が、信濃より飛騨への道を開拓しながら、安房峠南の大峠を越えて江馬氏の所領へ侵攻する。
第1次飛騨侵攻。
※この過程で平湯温泉は発見されたという。
※飛騨国は9割が森林とされる。

戦闘の結果降伏とアチコチの資料に記されているが。飛騨一国の所領化を望んでいた時盛、彼は早くから甲斐武田氏 晴信の武威を恐れていたとされる。江馬氏家中は武田派と嫡子 輝盛の長尾派と割れていた。当主時盛は戦闘におよび降ったのか、進軍、包囲等の時点で帰順を示したのか、子細不詳。
「飛騨出身の武田家臣 都竹五郎左衛門の説得により、江馬氏は晴信に降り所領を安堵された。」これは多く記されている。
※飛騨の一大勢力となった三木氏(姉小路氏)は越後長尾氏、越前朝倉氏と誼を通じている。北に江馬氏、西に内ヶ島氏の3勢力が飛騨国を統治。
※江馬氏は弘治2(1556)年に晴信に誼を通じている。三木領への侵攻に際し協力を願っている。

永禄2(1559)年、武田晴信は出家、徳栄軒信玄と号す。

永禄3(1560)年(元亀元(1570)年説)、大威徳寺合戦。武田氏傘下 苗木遠山氏 左近介直廉が飛騨侵攻。
第2次飛騨侵攻。
(苗木遠山氏→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000095786561&owner_id=32815602
下呂郷 舞台峠にあった大威徳寺(城郭仕様 巨大寺院)へ籠る三木軍 桜洞城三木良頼臣下 三木三郎左衛門尉(三木次郎右衛門?)を攻撃。寺院は大半が焼失し勝利目前であったとされ勝ち戦と捉えられる。しかし、遠山直廉が負傷したことにより撤兵している。

※永禄3(1560)年6月12日、桶狭間合戦。信長はこの3ヶ月後より美濃攻めを開始する。
永禄6(1563)年、信長は丹羽長秀に命じ小牧山城を築城。
同年7月、信長は本拠を移し美濃攻略を本格化した。
(小牧山城→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099837557&owner_id=32815602

永禄4(1561)年閏3月16日、山内上杉家家督および関東管領職相続。上杉政虎と改名。

同年中までに、信玄は神保長職と通謀している。
※越中守護代 じんぼうながもとは越中国内で一向一揆に協力し、越後長尾勢 椎名氏をたびたび攻撃し苦しめていた。だが、そのたび長尾景虎(上杉輝虎)に攻められ敗北し、従属を誓い、去ればまた翻って反抗した。
※景虎(輝虎)の越中出兵(神保氏成敗)は永禄3年3月、5年7月・10月。その他、能登畠山氏の仲介等にて椎名氏は、毎度殲滅寸前までに救われている。
※身を翻してばかりだったせいか、神保家中は親類から末端まで混沌としており、内訌はありふれた出来事だった。

永禄4(1561)7月、江馬氏と広瀬氏は同盟し三木氏所領へ進軍。緒戦は勝利したが、江馬時盛嫡子 輝盛が三木氏(姉小路氏)へ寝返ったため形勢が逆転した。また三木氏は越後上杉氏へ後援を要請しており、時盛は上杉政虎傘下 越中松倉城 椎名康胤の攻撃を受け高原諏訪城へ立て籠もった。江馬時盛は武田氏へ救援を要請するが援軍は来ず、和睦を申し入れて降伏した。
※永禄7年説あり。

同年8月、第4次川中島合戦。
9月10日、決戦。
12月、上杉政虎、足利義輝の一字を賜り輝虎と改名。

永禄5(1562)年9月5日、神保長職は神通川合戦で椎名康胤に大勝。居城 越中松倉城(金山城)まで攻め込むが、輝虎が後詰に現れ長職は降伏にまで追い込まれた。
※椎名康胤は長尾氏一族 長尾小四郎景直(父不詳で何処の家か分からない。天正4年より椎名小四郎景直)を養子に迎えており、越後長尾氏とは血縁のつながりを得ていた。

永禄6(1563)年、上杉輝虎が吉城郡 塩屋城の三木氏臣下 塩屋筑前守を降し、飛騨半国を征圧。このため越中神保氏、本願寺勢力・一向一揆勢は輝虎からの圧力を増大された。
同年、飯富源四郎改め、飯富三郎兵衛。

永禄7(1564)年3月、輝虎の動向から信玄は、飯富三郎兵衛を大将に飛騨高原郷へ侵攻させた。本格侵攻である。
第3次飛騨侵攻。
当主 時盛は武田氏に服従の意向だったが、嫡子 輝盛は上杉輝虎の傘下を固持、父と対立した。しかしこの侵攻に輝盛は武田氏に降伏、父 時盛に従った。
時盛は信玄へ僧籍にある3男 善立を還俗させて人質に差し出し、信玄はこれを右馬允信盛と名乗らせ、三郎兵衛に預けた。

同年5月、三木氏討滅に江馬氏を扇動する。飯富三郎兵衛が大将、木曽義昌も加わっている。
飯富三郎兵衛本隊は安房峠を西進、三木氏同盟 塩屋筑前守秋貞の尾崎城を攻撃。これを焼き討ち。秋貞は蛤城へ逃げ果せた。
三木氏に協力する千光寺は武田氏の影響下に入ることを拒否、僧兵により抵抗を見せたがこれもを焼き討ち。一山十九寺と称される諸伽藍・末寺を山ごと燃したと伝えられる。
※千光寺焼き討ちは、江馬氏に内応した広瀬氏が裏山から火を掛けたという。真っ赤に熱した梵鐘が武田陣営に転落していき、兵を数多殺したとも。

姉小路氏当主(三木氏当主←) 姉小路嗣頼(三木良頼)は、飯富三郎兵衛の攻勢に降伏。所領のうち吉城郡を江馬氏へ割譲させられ(新宮城、三仏寺城ほか)、武田氏の軍門に下った。姉小路氏は居城を益田郡へ移す。
※軍門に下った、は無い説。下ったが、輝虎と繋がり続けた説。
※他説──北飛騨からの武田軍の攻撃により諸城落城、姉小路氏は吉城郡を諦め南下、益田郡で態勢を整えようと上杉輝虎へ援助を求めた。

飯富三郎兵衛は姉小路軍を追えず(?)、信濃へ撤兵する。
姉小路嗣頼の要請に応じた上杉輝虎が川中島へ出陣したためである。

同年8月、第5次川中島合戦。2ヶ月におよぶ睨み合いが続き、決戦はなく終了した。

永禄8(1565)年、信玄、織田軍と初衝突。年未詳の史料に、森三左衛門可成、与力 肥田玄蕃允が秋山虎繁と戦闘に及んでいると考察できるものがある。その後も変わらず東濃は武田領のままのことから、虎繁が勝利したと思われる。

永禄10(1567)年5月、信玄は安房峠より飛騨・越中へ。
椎名康胤の越中松倉城、神保氏張の増山城、瑞泉寺、聞名寺などを巡見したという。
(このとき奥飛騨の江馬氏館へ信玄が逗留した記録があるとか。)

永禄11(1568)年、椎名康胤が上杉氏を離反して武田氏・一向一揆勢についた。輝虎は畠山義綱の七尾城奪還支援のため、能登出兵中だった。
※ここで神保長職は返って上杉氏につき一向一揆勢を攻撃。これにはさすがに内乱が勃発した。

謙信はこれに激怒し、大軍をもって松倉城を数度におよぶ攻囲のすえ攻略(松倉城の戦い)。康胤は落ち延び一向一揆に合流して上杉勢と戦い続けた。
※天正元(1573)年、謙信養子 長尾顕景を通じて帰参を申し入れているが、その後の消息は不詳。
(天正4(1576)年、一向宗の蓮沼城を上杉軍に攻略され自害説あり。)
※春日山城の留守を任せるほど、謙信は康胤に信頼を寄せていた。

元亀元(1570)年12月、輝虎出家。不識庵謙信と号す。

元亀2(1571)年、神保長職は(家中ゴタゴタのち)一向一揆勢と和睦。ふたたび謙信に弓を引くが、史料上からはこの年を最後に姿を消している。この頃亡くなったと思われる。

元亀3(1572)年、山村良利・良候を大将に信濃衆、苗木遠山氏 直廉ら美濃衆を援軍に、飛騨侵攻。江馬氏城郭群の江馬輝盛を攻撃。
(「山村代官屋敷/木曽氏居館(木曽町)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000095789689&owner_id=32815602
第4次飛騨侵攻。
同年5月、飛騨国内の織田勢力に対して懐柔工作を始めている。郡上郡の木越城 遠藤胤基、郡上八幡城 遠藤慶隆が武田へ寝返り、浅井・朝倉との連絡係となった。
同年7月下旬、撤兵。
8月、論功行賞。飛騨国の領国化が蓋然的にだが完了する。
(史料には見られないが、飛騨攻めにおいて帰雲城 内ヶ島氏とも接触があったのではないかという考察はある。)

9月中旬、江馬輝盛が越中の上杉陣営に亡命している。

元亀4(1573)年4月、信玄死去。後継の勝頼は飛騨・越中を捨てた。

※天正元(1573)年、信玄死去のち、輝盛は時盛を暗殺、江間氏当主となった。
※天正4(1576)年、謙信が飛騨松倉城を攻撃したという江戸期発刊の軍記物がある。眉唾。

※東濃侵攻→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000095786561&owner_id=32815602
(コメント欄 下2段が該当)
※駿河侵攻→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000098020194&owner_id=32815602
(コメント欄7〜9段目)
※武州相州侵攻→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000097522682&owner_id=32815602
(コメント欄2段目)
※西上野侵攻→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000098840234&owner_id=32815602

※遠江・三河侵攻→
真弓山城→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099507857&owner_id=32815602
※西上作戦→
野田城→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099578757&owner_id=32815602

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コメント (1)

  • 晴耕雨読 @黄昏の番犬

    ――mixi記事コピペ――2016年06月21日 14:25

    16.06.14.
    信玄の隠し湯(=゜ω゜)ノ
    山県昌景軍が飛騨攻めの最中、峠越えの疲労と硫黄岳の毒ガスにより疲弊していたところを、白猿によって教えられた温泉につかって疲労を回復した、という開湯伝説が残る。

    源泉最高温度90度。当方65.2度。高温のため加水。
    泉質、ナトリウム・カルシウム・マグネシウム、炭酸水素塩・塩化物泉。
    適応症、胃腸病・リウマチ性疾患・神経症・皮膚病など。
    (やけど・切り傷、慢性皮膚病、慢性婦人病、慢性消化器病、糖尿病、その他。)

    2017年5月6日 11:29 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)

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