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諏訪町交差点 西(大久保・高田馬場)

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写真: 諏訪町交差点 西(大久保・高田馬場)

写真: 諏訪町交差点 北・東・南(高田馬場・西早稲田・戸山・大久保) 写真: 水稲荷神社(西早稲田3丁目)

mixiアルバム「新宿区戸山 戸山公園/尾張徳川家/」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000047994459&owner_id=32815602
2012年01月20日 13:32

11.09.19
●新宿区戸山――
とやま。
牛込破損町。戸山山荘。→下戸塚村。一部→牛込下戸塚町。破損町+下戸塚村 →戸山町。
この全地域が、江戸時代は尾張殿の下屋敷だった。
屋敷の回遊庭園(戸山山荘)は、小石川後楽園に並ぶ江戸の大名庭園でも指折りだったが、風水害で荒廃し、幕末に焼失後はそのまま復興されなかった。
明治。当地付近(現在の大久保や百人町も含む)は軍事用地がおかれ、戸山ヶ原と呼ばれ陸軍の射撃場や陸軍の軍人養成機関である陸軍戸山学校など軍事関係の施設が並んだ。
戦後。ただちに住宅難で家が不足し、これを解消すべく、都によって当地に都営住宅が建造され、都内の団地の原点ともいえる“戸山ハイツ”が1949年に完成した。
1970年代、鉄筋コンクリートの高層住宅に立て替えられたが、現在でも当地域内の中心的な存在といえる。
箱根山は、山手線内では一番標高の高い築山。山頂にある水準点の標高は44.6m。麓から登りはじめて、約1分程度で登頂することができる。戸山公園内にあり、付近住民の憩いの場所。箱根山に見立てた築山(玉円峰)で、都立戸山公園といった緑地、都立戸山高校、学習院女子大、早稲田大学戸山キャンパス、国立国際医療研究センター戸山病院などの施設が存在している。
(都内有数の心霊スポットという一面も。戦時中、細菌戦の人体実験を行っていたとされる731部隊との関連が噂されており、箱根山の地面の下には陸軍戸山学校時代の銃弾が多数埋まっている((((○□○;)))) )

●尾張徳川――
徳川家康の九男 徳川義直(五郎太、義俊、義利)が家祖。
義直は慶長8(1603)年、家康より甲斐国に封ぜられるが、甲斐統治は甲府城代平岩親吉によって担われており、五郎太自身は在国せず駿府城に在った。
慶長11(1606)年、義直は兄 松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清洲に就封されると、家臣団が編制されて以後、尾張徳川家は江戸時代を通して尾張藩を治めた。
徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代家継没後、6代藩主徳川継友は後継筆頭 確実と言われながら、紀州徳川の徳川吉宗に継承争いに敗れた。その後 御三卿が創設され、尾張家から将軍が出ることはなかった。
藩祖義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として代々伝えてきた勤皇家であること、将軍輩出がなかったこと、将軍家から11代から14代まで養子を押し付けられ続けたこと(11代将軍家斉の子供以外にも家斉実家の一橋系からも養子に入っている)、等々により家中は将軍家への不満を募らせ貯え続け、幕末、戊辰戦争では官軍となった。

※開幕時――
尾張藩61万石、紀伊藩55万石、常陸水戸藩35万石。

●新宿区諏訪町――
町名の由来となっているのはもちろん諏訪神社。旧松原神社は平安時代創建と伝えられており、源氏や徳川氏の崇敬も得た由緒ある神社。諏訪神社に因み諏訪村を名乗ったが、諏訪谷(すわや)村との呼称も多く見られた。
諏訪神社は鬱蒼とした鎮守の森に囲まれ、諏訪森と呼ばれた。境内弁天池を通るように秣川(まつかわ)が縦断し、神田川に合流していた。明治初期までは諏訪神社の西方に十数戸の集落が存在するだけの小さな農村で、秣川流域に水田、残りに畑地が広がっていた。
昭和50(1975)年6月1日、町域のほとんどが高田馬場一丁目と西早稲田二丁目の各一部となった。その後は学習院女子短期大学(現 学習院女子大学)に隣接したごく狭小な区域のみが諏訪町として存続していたが、1981年6月1日実施の住居表示により当該区域は戸山三丁目21番街区となり、正式の地名としての諏訪町は消滅――

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