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松平備前守下屋敷跡(江東区佐賀)

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写真: 松平備前守下屋敷跡(江東区佐賀)

写真: 北辰一刀流剣術 伊東道場跡(江東区佐賀) 写真: 佐賀町跡 ・南部美濃守下屋敷跡(江東区佐賀)

mixiアルバム「深川(広域旧称。江東区南西部)」内フォトコメント
2013年06月18日 19:35

●松平備前家――
◎松平織部正――
長沢松平家分家。大河内松平宗家初代。
元和3(1617)年、本多正信の遺領となる、相模国鎌倉郡玉縄藩を預かる。(鎌倉市玉縄地域→ 大船〜北鎌倉一帯)
1、正綱、従五位下・右衛門佐、右衛門大夫
・相模国玉縄藩
2、正信、従五位下・備前守
3、正久、従五位下・弾正忠、備前守
元禄16(1703)年2月、上総国大多喜藩へ転封。玉縄藩は廃藩。
4、正貞、従五位下・織部正、河内守、備中守
5、正温(まさはる)、従五位下・信濃守、備前守、弾正忠
6、正升(まさのり)、従五位下・織部正、備前守
7、正路(まさみち)、従五位下・弾正忠、兵部少輔
8、正敬(まさかた)、従五位下・織部正
9、正義、従五位下・備中守
10、正和(まさとも)、従五位下・織部正
11、正質(まさただ)、従五位下・弾正忠、豊前守


※松平正綱――
松平備前家。長沢松平家分家。大河内松平宗家初代。
世界最長の並木道、日光杉並木の寄進者。
天正4(1576)年生まれ。大河内秀綱次男。
文禄元(1596)年より家康に近仕。板倉重昌・秋元泰朝と並び、駿府での近習出頭人となる。
慶長14(1609)年頃より勘定頭の任も兼ねている。
才知に富み、機転に長け、かつ財政にも明るかったことから家康の覚えがめでたかった。
家康の死後、秀忠近辺から敬遠された駿府衆の中で唯一、秀忠や江戸老中に重用された。幕府の財政政策はもとより、天領の管理も担当する正綱の立場は、後の勘定奉行の前身とはいえその権勢は天地の差を誇ったと言える。
格式と実力は老中以上と言って過言ではない。
しかし、3代家光には権力確立の妨げになる存在とされ(養子信綱が家光の側近だったにも関わらず)、幕閣から排除された。

※長沢松平家・大河内松平家――
長沢松平家は、松平氏の庶流。十八松平のひとつ。
松平宗家3代 信光の11男(他説あり)親則を祖とする。徳川十六神将 松平康忠は8代。康忠の孫 連姫は家康に養子入りのち、有馬豊氏へ嫁ぐ。
長沢城(三河国宝飯郡長沢)を本拠地としたため、こう呼ばれた。

天正15(1587)年、家康の命で摂津源氏末裔 大河内正綱が長沢松平家分家の松平正次の養嗣子となる。この後は大河内松平家とも呼ぶ。
(摂津源氏 大河内の祖は、以仁王の乱で三河国額田郡大河内郷へ落ちた源顕綱。祖父は源頼政、父は源兼綱。1級資料なし。足利氏→吉良氏→徳川氏。)
松平正綱が大名として取り立てられただけでなく、養子となった甥の信綱(知恵伊豆、老中 松平伊豆守信綱)が松平伊豆守家として大成させて本家より栄えた。末裔には小知恵伊豆と言われた老中 松平伊豆守信明もいる。大名を3家、旗本の家もあった。このため、江戸時代の長沢松平家は傍流の大河内松平家を指す場合が多い。
文禄2(1593)年、康直が嗣子無きまま病没。家康は7男 松千代を養子として家名存続を図った。しかし、その松千代が夭折。次に家康は、6男忠輝(松千代の同母兄)を新たな養子とした。
元和2(1616)年、忠輝は異母兄の将軍秀忠により改易される。忠輝を養子に迎えて繁栄を見込んだのも束の間、長沢松平家の家名は断絶した。
正綱・信綱は長沢松平家の傍系に過ぎず、大河内氏の流れではない長沢松平家の直系は存続した。しかし、江戸幕府は永らくこの家を認めなかった。
(明治維新後、大河内松平家は全家大河内姓に復している。)
享保4(1719)年、長沢松平家を承認する。
天保5(1834)年、幕臣として十人扶持の禄が下りる。
幕末期の当主 松平忠敏(主税助)は、浪士組の取締役を勤めた。

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