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松平伊豆守下屋敷跡(江東区牡丹)

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写真: 松平伊豆守下屋敷跡(江東区牡丹)

写真: 尾張殿下屋敷跡(江東区牡丹)黒船橋南詰東側 写真: 石置場(江東区牡丹)

mixiアルバム「深川(広域旧称。江東区南西部)」内
記事 https://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1953076502&owner_id=32815602
2013年06月17日 20:05

●松平伊豆守家――
吉田藩松平家・松平伊豆守・大河内松平家分家
1、信綱、従五位下・伊豆守、従四位下、侍従(老中)
武蔵国忍藩→ 川越藩
2、輝綱、従五位下・甲斐守
3、信輝、従五位下・伊豆守
武蔵国川越藩→ 下総国古河藩
4、信祝(のぶとき)、従五位下・甲斐守、伊豆守、従四位下、侍従(老中)
古河藩→ 三河国吉田藩 →遠江国浜松藩
5、信復(のぶなお)、従五位下・左衛門佐、伊豆守
→三河国吉田藩
6、信礼(のぶいや)、従五位下・甲斐守、伊豆守
7、信明(のぶあきら)、従五位下・伊豆守、従四位下・侍従(老中)
8、信順(のぶより)、従五位下・駿河守、伊豆守、従四位下・侍従、刑部大輔(老中)
9、信宝(のぶたか)、従五位下・隼人正、伊豆守
10、信璋(のぶあき)、従五位下・伊豆守
11、信古(のぶひさ)、従五位下・伊豆守、刑部大輔

※2代輝綱を除き、代々伊豆守を叙任している。

※松平伊豆守信綱――
幼少の頃より才知に富み、官職の伊豆守から「知恵伊豆」(知恵出づとかけた)と称された。
柳生宗矩、春日局と共に、家光を支えた「鼎の脚」に数えられる。
幕藩体制は信綱の時代に完全に固められた。また、諸事の善処でも有名で、政治の天才と言える。
幕政ばかりではなく、藩政の確立・発展にも大きく寄与している。
多くの人々に評価されていながら、人望は今ひとつだったという。「才あれど徳なし」と評されてもいて、クソ真面目過ぎたのではと考えられている。下戸で、人を集めてすることと言えば政談だったという。


●松平伊豆守信綱――
慶長元(1596)年、家康家臣 大河内久綱の長男として武蔵国に生まれる。幼名は三十郎。
父 久綱は伊奈忠次配下の代官で、当時小室陣屋付近(埼玉県北足立郡伊奈町小室)に居住していたため、当地で生まれたと考えられている。
母 深井氏は、白井長尾氏の末裔で、母方の祖父 深井好秀は長尾景春の玄孫(やしゃご)。

慶長6(1601)年、叔父 松平右衛門大夫正綱の養子となる。
御上の側近くで奉公したいがため、松平姓があればと望み、自ら養子を嘆願したという説がある。
慶長8(1603)年11月、正綱に従って伏見城へ赴き、将軍家康に拝謁。
慶長9(1604)年7月17日、家光誕生。25日、家光付小姓、3人扶持。
慶長16(1611)年11月、元服。名を正永とする。
慶長18(1613)年1月、井上正就の娘と結婚。
元和6(1620)年1月、500石。 家紋を三本扇とする。
同年12月、養父正綱に実子 利綱(正次・左門)誕生。信綱は名跡を継ぐのは利綱と宣言。正永、信綱と改名。
元和9(1623)年6月、御小姓組番頭、300石加増。
同年7月、従五位下・伊豆守。
寛永元(1624)年5月、1200石加増。
寛永5(1628)年1月、相模国高座郡・愛甲郡に8000石。計1万石の大名となる(寛永10年説有力)。
同時、一橋門内に屋敷贈与。
寛永7(1630)年5月、上野国白井郡・阿保郡などに5000石加増。
寛永9(1632)年1月、大御所秀忠逝去。正綱・信綱は共に遺銀400枚下賜。
寛永10(1633)年3月、阿部忠秋、堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次らと6人衆に任命(のちの若年寄)。
同年5月、阿部忠秋、堀田正盛と共に老中に任命。1万5000石加増、3万石で武蔵忍に移封。忍城付の与力20騎・同心50人。

寛永11(1634)年3月3日、「老中職務定則」、「若年寄職務定則」制定。
閏7月29日、従四位下。
寛永12(1635)年10月、小姓組番頭を罷免(老中職専念のため)。
同年11月、寺社奉行・勘定頭・留守居などの職制を制定。また、月番制も定めた。職務を円滑に進められるよう、将軍直轄体制へ改革を推進。
寛永14(1637)年10月、島原の乱。幕府軍総大将。(別途)

寛永15(1638)年11月、老中首座、幕政を統括する。土井利勝が大老に。
寛永16(1639)年1月、一揆鎮圧の勲功にて、3万石加増、計6万石で川越藩へ移封。
城下町の整備、江戸へつながる新河岸川や川越街道の整備、玉川上水や野火止用水の開削、農政の振興など、藩政の基礎を固める。
川越を小江戸と称されるまでに発展させ、のちの大正11(1922)年12月、埼玉県で最初の市制を布かれるきっかけとも言われる。
島原の乱以後、切支丹取締強化、武家諸法度改正、葡萄牙人追放、阿蘭陀人隔離(鎖国制)を実行、完成させた。
寛永16(1639)年8月、江戸城本丸焼失。再建惣奉行。
慶安元(1648)年4月、養父正綱死去。
慶安4(1651)年4月、家光逝去。酒井忠勝らとともに徳川家綱補佐に当たる。殉死しなかったことを江戸市民に数多、長く非難されている。しかし、それは家綱補佐を家光から遺言されていたためであり、また、先代に御恩を蒙っている者がみな殉死したら誰が徳川家を支えるのかと反論している。
同年7月、慶安の変。鎮圧。
承応元(1652)年9月、承応事件。鎮圧。
明暦3(1657)年1月、明暦の大火。諸対応。
寛文2(1662)年3月、病没。


※島原の乱――肥前国島原や肥後国天草郡などでキリシタン一揆が発生した。
幕府は板倉重昌と石谷貞清を派遣、さらに日根野吉明、鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉勝家ら九州の諸大名へ鎮圧と加勢を命じた。しかし、一揆勢は原城に籠城、抗戦。大敗を繰り返し、戦闘は長期化する。
寛永15(1638)年1月1日、重昌戦死。石谷貞清重傷。
信綱、幕府軍総大将就任。
1月28日、戸田氏鉄負傷。一揆の抵抗激しく、信綱は兵糧攻めに持ち込む。結果、2月下旬に一揆の兵糧はほぼ尽きた。
2月28日、原城陥落。城内にいた者は老若男女問わず斬殺。逃亡等で捕らえた者は斬首、晒し首。
信綱は、天草時貞の首実検を時貞の母と姉に行わせ、曝し首とした。
3月1日、原城破却。
一揆勃発の責任を追及され、松倉勝家は領地没収、配流された美作で打ち首。寺沢堅高は天草領没収、後に気を違えて自殺。2月27日に抜け駆けした佐賀藩鍋島勝茂は半年の閉門。

幕府軍125,800人(“オランダ商館日記”では士卒80,000。)
死傷者は“島原記”、1130人・負傷者6960人。“有馬一件”、死者2800人・負傷者7700人。“オランダ商館長日記”死者5712人。
信綱家臣は1500名、6名戦死、負傷103名。
柳川藩立花宗茂、熊本藩細川忠利、豊前小倉藩小笠原家より宮本伊織従軍、豊前中津藩小笠原家より宮本武蔵従軍など。福岡藩黒田家、久留米藩有馬家ほか。
一揆勢戦闘員、推定14,000人以上。女子供等非戦闘員、推定13,000人以上。計 37,000人(逃亡者含む。事前の脱出者が1000人以上いたなど、諸説)。
幕府軍の攻撃とその後の処刑によって、最終的に37,000人が死亡。生き残ったのは内通者の山田右衛門作(南蛮絵師)1人と言われる。

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