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13.10.22.目黒川・目黒谷(品川区西五反田)

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写真: 13.10.22.目黒川・目黒谷(品川区西五反田)

写真: 13.10.22.目黒川・目黒谷(品川区西五反田) 写真: 13.10.22.柳生但馬守下屋敷跡(品川区西五反田)

2013年10月23日 01:20

●尾張柳生家/柳生利厳――
柳生宗厳長男 厳勝の次男(嫡子) 利厳(としよし/としとし)が家祖。
尾張柳生家では、新陰流の道統は永禄8年4月に流祖信綱より二世として宗厳に、慶長10年6月には三世として柳生利厳に伝わるとしている(二十世柳生厳長「正傳新陰流」)。
兵庫助は幼時より祖父 石舟斎のもとで剣術を学んだ(天正7(1579)年生まれ)。また、阿多棒庵より新当流長太刀(穴沢流薙刀術)を学び皆伝を授かるなど、若年からその腕前に定評があった。
慶長8(1603)年から慶長12(1607)年まで、肥後国熊本の加藤清正に仕えている。清正自身より請われ、500石(3000石とも)を与えられた。領内で一揆が発生し、その鎮圧にあたった際、指示に従わない古参家臣 伊藤長門守光兼を斬り捨てた。一揆を鎮圧したのち、古参の将を斬った責と加藤家から逐電した。
合戦後、加藤清正に仕官するため自ら家を出たというのがおもての記録。
その後、諸国巡遊の旅に出たとされているが、上記の書によれば慶長9(1604)年には柳生庄へ戻り、新陰流の正統を継ぐため更なる鍛錬を石舟斎より積んでいたとある。ここに新陰流3世と柳生新陰流3代が立ったとされる。
「新陰流」は、必ずしも柳生家ではなく。「柳生新陰流」尾張家当主ではあるが、正統ではない、ということがあるためという。柳生新陰流道統でも「3」代なのは、石舟斎長男 柳生新次郎厳勝が継承したことにしているため。
「家」としての柳生家は宗矩が。
「刀」としての柳生家は利厳が継いだ。
これには石舟斎の、刀は利厳の方が宗矩より優れていた、血筋上(宗矩は5男、利厳は嫡孫)、宗矩の将軍家での職務・政から、宗矩を嫌っていた説、新陰流を守るため、など諸説数多の思惑があったためという。

元和元(1615)年、尾張家家老 成瀬正成の推挙で徳川義直に仕えることとなった。利厳はここで義直に新陰流を直伝する。それから30年、利厳は義直に兵法指南役として仕えた。利厳は四世を主君の義直に伝え、利厳の次男、厳包は義直から五世を承けている。以来、新陰流の正統は、尾張徳川家の当主と尾張柳生家の当主が交互に相伝しあうという形式になる。藩校 明倫堂の剣術師範には選ばれていない。

※江戸柳生との不仲は、宗矩が利厳の妹を断りなく婚姻させた(柳生(佐野)主馬。朝鮮人)ことをきっかけに不和となったと記録されている(玉栄拾遺)。だが当の本人たちが生存している間にはなんの問題も発生していない。家督、流派の正統性について、禄高についてなど。よって石舟斎以下3人のうちでなにかしらの合意があったのではないかと推察することもできる。
尾張柳生と江戸柳生の不仲は当人たちが亡くなった後。しかも尾張柳生が一方的に嫌っていたと見受けられる。


これ以上の仔細の記載は10倍くらいの原稿になるので、これにて中止します……。掘り下げたい部分もあるのだけど……やめます。アレコレ書きたいのだけど………ジツは某のなかでもまとまっておらず(10年前wwwwwwwww)、今読み返してみてもワケワカラナイというのがシンジツ……<(≧ε≦)テヘペロ!


尾張柳生家の主張は、柳生宗家(本家)を継いでいるのは嫡流の自家であり、傍流の江戸柳生家は分家であるという。
徳川実紀、寛政重修諸家譜、本朝武芸小伝、撃剣叢談など江戸時代に書かれた数多の記述において、石舟斎の嗣子とされているのは一貫して宗矩であり、尾張柳生家を柳生宗家と認めている記述は皆無。当の尾張柳生家の史料でも確認できない。資料上に登場し始めるのは、20世 柳生厳長による「柳生流兵法と道統」・「正傳新陰流」など以降である。これは昭和になってからの話。そして研究者たちに否定論を出され、日本史学会においては覆っていない。

利厳の伝えた新陰流は現代まで伝承されている。

※おまけ――
「心法の江戸柳生、刀法の尾張柳生」と謳われるようになった最初。のちに「尾張の麒麟児」・「天才剣士」・「尾張柳生最強」と謳われたのは、利厳3男 柳生連也斎厳包(としかね)。
政治メインとなった江戸柳生。剣術の研鑽を続けた尾張柳生。

はてさて。

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