ヘルプ

  • 117

写真:

写真: 総光寺(福井市)

総光寺(福井市)
19.05.15.
松柏山 総光寺
宗派、曹洞宗
本尊、?
開基、丹羽長秀
開山、?
創建、天正期?
再興、福井藩士 芦田某

丹羽氏菩提寺。

福井県巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1X5XOLQ1jkd55knMGGdYe680kmG8&usp=sharing


mixi「永田町」内「丹羽長秀」「丹羽左京太夫」コピペ……
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2101179585&owner_id=32815602

2014年08月28日 22:52
●丹羽左京大夫――
丹羽氏・児玉丹羽氏・良岑氏、二本松丹羽家・丹羽二本松家、長秀流丹羽氏
※良岑(よしみね)氏、武蔵七党児玉氏、藤原氏は自称で確たる史料は存在しない。長秀以前の系譜は不詳。

※丹羽長秀――
天文4年9月20日(1535年10月16日)〜天正13年4月16日(1585年5月15日)。
丹羽氏は、元は斯波氏の家臣。
天文19(1550)年より織田信長に仕える。
信長の信任厚く、序列は2番目、その存在価値から米五郎左と称された。軍事面では他より劣ると評されるが、勝家と並ぶ猛将で鬼五郎左とも称されている。
室は深光院(桂峯院。織田信広娘、信長養女)。
天正10(1582)年、本能寺の変。のち、羽柴秀吉に味方して山崎で戦った。
天正11(1583)年、賤ヶ岳合戦でも秀吉に味方した。戦後、越前・若狭・加賀国2郡123万石の大大名となる。
天正13(1585)年、長秀没。

・丹羽長重――
後継 丹羽長重は、軍律違反があったとして秀吉から領国の大半と長秀時代の有力家臣までを召し上げられた。これは、秀吉による丹羽氏の勢力削減政策であったと言われる。加賀国松任4万石にまで減封されたが、小田原征伐で戦功を挙げ、加賀国小松12万石まで加増を遂げた。

慶長5(1600)年、関ヶ原合戦。長重は西軍に属して前田利長軍と戦った。
戦後改易されるが、長重室は信長5女報恩院で、秀忠室江与と従妹にあたる関係だったことが鑑みられ、秀忠の執り成しで慶長8(1603)年、常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰。
慶長19(1614)年、大坂の役で戦功を挙げる。
元和5(1619)年、常陸国江戸崎2万石へ加増移封。
元和8(1622)年、陸奥国棚倉5万石へ。
寛永4(1627)年、10万700石へ加増され、陸奥国白河へ移封。

※織田四天王(柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀。羽柴秀吉を加えると織田五大将)の家系で江戸時代を大名家として生き存えたのは長秀の家系だけ。
信長の重臣であったという所以から、国主格の厚遇を受けている。


1、長重、従四位下・侍従、従三位・参議・加賀守
2、光重、従五位下・左京亮、従四位下・左京大夫、侍従
→陸奥国二本松藩

3、長次、従五位下・若狭守、従四位下、侍従、左京大夫
4、長之、従五位下・越前守
光重次男。
5、秀延、従五位下・左京大夫、従四位下
6、高寛、従五位下・左京大夫、従四位下
丹羽長道長男(←?←長次(旗本1500石)←丹羽長秀6男)

7、高庸、従五位下・若狭守、従四位下
8、長貴(ながよし)、従五位下・左京大夫、従四位下、加賀守、侍従
9、長祥(ながあきら)、従五位下・大炊頭、加賀守、左京大夫、従四位下
10、長富(ながとみ)、従五位下・左京大夫、侍従、左近衛権少将
11、長国、従五位下・越前守、従四位下、左京大夫、侍従、従四位上、子爵
長富6男。
12、長裕、従五位、子爵

アルバム: 公開

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。