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聖衆来迎寺(大津市比叡辻)

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写真: 聖衆来迎寺(大津市比叡辻)

写真: 聖衆来迎寺(大津市比叡辻) 写真: 建部大社(大津市)キリシタン燈籠

聖衆来迎寺(大津市比叡辻)森可成公墓
19.05.16.
紫雲山 しょうじゅらいこうじ
宗派、天台宗
本尊、阿弥陀如来・釈迦如来・薬師如来
開基、?
開山、最澄
創建、 延暦9(790)年?

(wiki)元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちに際して、当時の聖衆来迎寺住職は仏像、仏具などを船に乗せて、琵琶湖の対岸の兵主大社(ひょうずたいしゃ)へ避難させた。しかし、比叡山の諸堂や山麓の坂本の町も焼き尽くされたにもかかわらず、聖衆来迎寺は焼き討ちを免れ、そのため多くの文化財が現代まで伝わっている。ただし、寛文2年(1662年)の大地震をはじめとする災害によって堂舎はたびたび破損し、中世以前の建物は残っていない。
聖衆来迎寺が織田信長の焼き討ちをまぬがれたのは、信長の家臣・森可成(もりよしなり)の墓所がこの寺にあったためという。森可成は数々の武功を立て、織田信長の信頼が厚い武将であった。比叡山焼き討ちの前年にあたる元亀元年(1570年)、可成は信長の命で宇佐山城(現・大津市近江神宮付近)を築き、信長に敵対する浅井・朝倉連合軍に対峙したが、可成は聖衆来迎寺付近の比叡辻で戦死した。比叡山系の僧兵らが信長の敵である浅井・朝倉側についたことが、翌年の比叡山焼き討ちの原因をつくったとされている。聖衆来迎寺は、比叡山との関係から言って、浅井・朝倉側に味方すべき立場にあったが、当時の住職・真雄は、敵方の大将である森可成の遺骸を夜間密かに運び込み葬ったという。(←)

もりよしなり――
wiki→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%8F%AF%E6%88%90




近江国巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1uJTVD00xZNi_fLvLou46rdrv0W0&usp=sharing

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