海禅寺(台東区)
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檀家1……
mixiアルバム「中央区湊」コピペ──
2013年02月13日 13:36
●蜂須賀阿波守――
阿波徳島藩(江戸開幕後)
初代 蜂須賀至鎮(よししげ)
豊臣姓下賜。松平姓下賜。
塩田開発。
2代 忠英(ただてる)
3代 光隆
4代 綱通(つなみち)
7代 宗英(むねてる)
8代 宗鎮(むねしげ)
10、重喜
11、治昭
12、斉昌
13、斉裕
14、茂韶(もちあき。第11代東京府知事)
●藩祖 蜂須賀家政――
※父は「小六」(のち彦右衛門)の愛称で有名な、蜂須賀正勝(大永6(1526)年〜天正14(1586)年)。秀吉青年期よりずっとそばに居た。
その生涯を示す1級史料はない。
天正13(1585)年の紀州征伐など、秀吉の天下統一における数々の戦争に従軍し、戦功を挙げた。雑賀攻めの後に行なわれた四国攻めでは、阿波木津城攻め、一宮城攻めなどで武勲を挙げた。
四国攻め後、秀吉は正勝へ阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕える道を選んで辞退、やむなく嫡男 家政に阿波を与えた。
天正14(1586)年、阿波18万石の大名となり、同年1月2日、従五位下・阿波守に叙任。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦では、西軍から徳川方の姿勢を糾弾され高野山へ追放されたが、家康の上杉景勝征伐に同行させていた至鎮が関ヶ原の本戦で東軍として参加、戦功を挙げた。家康から所領を安堵されたが、自身は家督を至鎮に譲り、蓬庵と号して隠居した。
慶長19(1614)年、大坂の合戦では、豊臣方からの誘いに「自分は無二の関東方」と称し与力を拒絶している。
冬・夏の陣で至鎮が戦功を挙げ、淡路一国を与えられた。25万7,000石に加増した。
元和6(1620)年、藩主である息子 至鎮が先に逝く。幼くして襲封した嫡孫 忠英(慶長16(1611)年生まれ)の後見を幕府から命ぜられ、寛永6(1629)年まで政務を取り仕切り、藩政の基礎を築いた。
戦国以来の長老として、3代家光の側に御伽衆として出仕することもあったという。
寛永15(1638)年12月30日、81歳で永眠。
●阿波国――
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために「粟国(あわのくに)」、南の地域は「長国(ながのくに)」と呼ばれていたが、大化の改新の後に「粟国」に統一された。
和銅6(713)年、元明天皇の命により地名を二字で表記することになり、粟は「阿波」に変更された。
明治4(1871)年、廃藩置県施行により、阿波は名東県となった。名東県は淡路国(淡路島)も範囲とし、さらに明治6(1873)年2月20日には香川県も編入する。
明治8(1875)年9月5日、第二次府県統合より旧讃岐国部分が香川県として分立再置県した。翌年8月21日、淡路国部分が兵庫県に編入、阿波国部分は高知県に編入した。
明治13(1880)年3月2日、旧名東県が高知県から分離、現在の徳島県が発足する。
再三変更を繰り返したが、四国各国は、ほぼ旧国の形のまま、県へと移行した┐(´Д`≡´Д`)┌
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