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匂坂城(磐田市)縄張考察地 北より

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写真: 匂坂城(磐田市)縄張考察地 北より

写真: 匂坂城(磐田市)北西より 写真: 匂坂城(磐田市)匂坂上東交差点より

mixi記事コピペ――2016年06月08日 20:45

16.05.18.
さぎさか。(さきさか。向坂。鷺坂。)
築城年、天文元(1532)年
築城主、匂坂筑前守六郎五郎長能
城主、匂坂氏
廃城年、不詳
標高70m?/比高?m
遺構、無し。
二俣街道に面する交通要害の地。
磐田原台地西縁に位置したものとみられる。関連地名に大土居・馬坂・徒坂・大土居中などがある。
(→静岡戦国浪漫m(_ _)m)磐田原台地西縁、笠井街道(山梨道)が馬坂から台地を上る匂坂上地内の標高約70〜80mの台地端部に位置したものとみられる。遺構はかつて字大土居に幅約3〜4m、深さ1.5m、東西の長さ約100mの南側の堀、及び東側の北に延びる堀(規模不明)と土塁が存したが、土地改良等により消滅している。付近から焼米が出土する。(←)
居館は台地西下、匂坂中の本城塚付近とみられるが、仔細不明。こちらが城跡との説も。

築城時は今川氏家臣。
永禄11(1568)年12月、徳川家康が掛川城攻略に際し、匂坂・見取・牛飼・寺谷・平松の所領安堵状を匂坂六郎五郎吉政に与えている。
元亀3(1572)年10月15日、武田軍の攻撃を受け落城。
(元亀2(1571)年3月説あり。高天神城攻めの時、同月3日、小田末・匂坂・宮口の三城を落としたという。)
二俣城攻城戦では、社山・野辺・向笠・可久輪などとその支城になり、穴山信君を大将に後方防衛の役割を与えられた。
※穴山信君の出家は天正8(1580)年。梅雪斎不白。

匂坂兄弟(政信・吉政)は、姉川合戦で朝倉氏の猛将 真柄十郎左衛門直隆を討ち取る武功を挙げている。
その後醜い内訌が…。


●匂坂氏館──
こちらが城跡とされている。が、ここはあまりにもあんまりな……。どの程度の防御機能があったことか。弱小城郭のため捗らず落とせたように表現されるが、有事の詰城くらい思案、建設されたと思うのですよo(>▽<)o 匂坂城以前に本拠としていた社山城は北へ1里半以上あるし。崖端城はあったと思います。



「遠江・三河侵攻」
真弓山城→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099507857&owner_id=32815602
「西上作戦」
野田城→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099578757&owner_id=32815602


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1WiPgV9Fgfpjv5vy3v0kilOraqXU&usp=sharing

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