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首洗い池(甲州市大和町)

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写真: 首洗い池(甲州市大和町)

写真: 首洗い池(甲州市大和町) 写真: 首洗い池・景徳院門前(甲州市大和町)

mixi記事コピペ――
「武田勝頼公 最期の道のり(甲州市大和町)」
2014年07月02日 00:47
14.07.01.
鞍懸(くらかけ)──
逃亡する長坂長閑(武田家滅亡の要因をつくったとされる長坂釣閑斎)が土屋惣蔵に追われ落ちた鞍が路傍の桜の木にかかっていた所とか。
※そもそも鞍掛や血洗沢などは山梨県の昔のヤクザに関わる言い伝えはあるものの武田勝頼の史跡との関係はないものであるとのことでした。ところがこの奥の田野の地に武田勝頼公終焉の地があるために武田と結びつけて作り上げてしまった話なのではないかとのことでした。
(武田家の史跡探訪様より抜粋→ http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/kurakake.htm


血洗沢(ちあらいさわ)──
この地は土屋惣蔵が、逃亡した跡部大炊介を追尾して斬り、この沢で血を洗い流したとか。


※上ふたつ、国道20号沿いの説明板消失。偽説と断定したのだろうか。もとより、十数年前にはボロボロに朽ちていたようだが。

・長坂光堅(みつかた。虎房・頼広・頼弘・長閑斎・釣閑斎。ちょうかんさい)は信虎、晴信(信玄)、勝頼の3代に仕えた譜代家老衆。
史料登場時は足軽大将。板垣信方配下。
使者、斥候、奉行などとして史料に記載が見られる。
長篠合戦において、大敗の原因を作った人物とされる…。

・跡部大炊介勝資(おおいのすけ・かつすけ)。譜代家老衆。信玄期・勝頼期には跡部勝忠・跡部昌忠と譜代家老がいるが、父 信秋・勝資の系統との関係は不詳。
甲州軍艦では、勝資は300騎持の侍大将となっている。武田家中では山県昌景・春日虎綱(高坂昌信)と並ぶ(最大数)。
おもに領国各地の国衆との取次を務めている。信玄期・勝頼期通して、駒井高白斎同様に外交・領国支配双方で数多くの文書奉者として名を残しており、当主の意思伝達を担う重要側近であったと考察される。数国規模の領国を形成した甲斐武田氏では、服属された他国国衆や領域支配・他国との外交において、各方面への取次を寡占化する出頭人(室町〜江戸期、主君の側にあって政務に参与した者。出頭衆)が出現しており、跡部勝資のほか土屋昌続、原昌胤らが朱印状奉者を独占的に務める出頭人となっていたと指摘されている。
(このオリゴポリーが、家中内訌、離反、そして滅亡──さらには軍艦で誹謗、非難ばかりを記されたと思われる。)

甲陽軍艦ほか一部において、両者は武田家を滅亡へ導いた、勝頼公に道を誤らせた奸臣とされている。しかし軍艦は、勝頼公とその近辺を悪し様に記す史料だと今日では知覚されている。他の史料とその研究によって、ふたりの人物像や事績は訂正されている。

近年勝頼公は、信玄公以上の能力者だったとも見直されている。

ふたりは勝頼公と最期を供にしている(というのが有力説)。



甲斐大和駅 勝頼公像──


四郎作(しろうつくり)古戦場──
四郎作(しろうつくり)古戦場由来──
小宮山内膳友晴(友信)は武田の重臣小宮山丹後守昌友の長男として武田氏に仕え諸国への使い番十二人衆の一人に数えられ武田軍政に重きをなしていた。天正3年の長篠合戦以後武田軍の中枢は重臣たちによって司られていたが小宮山内膳はその折々軍のため率直に意見を述べた。重臣たちはこれを快しとせず理非をわきまえずにこれを否定し遂に讒言により主君の勘気を被り蟄居を命ぜられ幽閉の身となった。しかし天正10年3月11日に武田勝頼は多くの重臣たちに離反され一族とともにこの付近において最後の決戦をする運命に陥ったのである。小宮山内膳は主君の危急を知り決戦の前夜一行に追い付き「友晴が譜代の臣でありながら武田家の最後の戦いに臨めなかったなら小宮山家末代までの恥辱であり武士道にも背くゆえ蟄居の許しを請い最後の戦いに御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と言上した。勝頼は「あっぱれな武士の鑑よな余の不徳の致す処であった」と直ちにこれを許した。小宮山内膳は勇躍戦いの最前線であるこの地に陣を敷き寄せ来る敵と奮戦数刻の末従容として主君に殉じたのである。戦いの直後奇しくも内膳の弟僧の拈橋がこの地を訪れ殉死した一族の霊を弔い内膳には「忠叟道節居士」の法名を贈った。後に水戸藩の儒学者藤田東湖は文天祥の正気の歌に和して「或殉天目山 幽囚不亡君」と詠み崇高な至誠を貫いた内膳の忠節義烈を称えている。
(石碑裏文章)


鳥居畑(とりいばた)古戦場──
時、天正10年3月10日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走続ける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓、駒飼に着いた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り、城主小山田信茂が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦することに決め、付き従う者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒等43人、初鹿野から日川の峡谷づたいに田野の里に入った。その時かねて侫人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳正友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞うたのである。
その夜、天目山の頂きは残雪を残して寒気厳しく疲れ果てた主従は明日の運命を悟りきってか深い眠りにおちていた。明くれば3月11日谷底の里、田野の夜がすっかり明けやらぬ払暁、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押し寄せてきた。織田信長の先鋒滝川一益、川尻鎮吉らの軍勢約4千である。勝頼公は己の命運のつきたことを知ると、16才の嫡子信勝を招き新羅三郎以来武田家に相伝された楯無の鎧を着せて「かん甲」の式を挙げた(現在景徳院内に有り)
秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳正友信、土屋昌恒等百人に満たさる小勢を以って駒場口より攻め寄せる織田軍と戦い撃退すること数度以って勝頼公として従容死を決するを得せしむ。生害石、甲将殿直前に三枚の扁平なる石有り、勝頼公、夫人、北条氏世子信勝公の生害せし処(現在景徳院内に有り)
「山雲月を掩ふて夜色自ら惨たり」と史書はこの時の様子を伝える。武田家滅亡最後の激戦地なり。
(説明板)


姫ヶ淵──
(付近の日川。上流にダムが造られたため現代は水量が少ないが、天正当時は激流渦巻く河川だったそうだ。)
天正10(1582)年3月11日武田勝頼公一族は、織田、徳川の連合軍の攻撃を受け激戦の末家臣と共に悲惨な最期をとげ、新羅三郎義光以来甲斐の守護として連綿と続いた甲斐源氏はその歴史を閉じた。
その折勝頼公夫人北条氏の侍女16人は若い生命を日川の淵に身を投じて殉死したと伝承され、後世の者はこの淵を姫ヶ淵と言い伝えているが、現在の日川は上流で発電用水として取水しているために水量が少なくその様相を変えている。
この石碑は北条夫人を含めた17名を表現したもので、侍女らを顕彰し慰霊するものであり、山梨の歴史文化公園に指定されたを期に建立したものである。


首洗い池──
勝頼、信勝父子の首を洗った所。


土屋惣蔵片手切──
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000090670700&owner_id=32815602


大蔵原思案石──
笹子峠で小山田信茂の裏切りにあい、天目山栖雲寺(せいうんじ)へ向かっていた。しかし、そこにも裏切者の追っ手が待ち受けていると知る。進路をふさがれた勝頼は、その場にあった石に腰掛けて思案し、田野へ引き返したと言われる。


甲斐国巡回マップ
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1VY8nmTna0GP6H1hoaMPR0a1JsgU

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