信貴山・聖徳太子像1
今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利したことから、自ら毘沙門天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。
その後、醍醐天皇ご重病のときに毘沙門天王の御加護により全快されたことから「朝護孫子寺」の勅号を賜りました。
アルバム: 信貴山
お気に入り (11)
11人がお気に入りに入れています
コメント (4)
-
聖徳太子も戦ったんですね。
イメージが湧きませんが・・・。2020年2月25日 11:44 豊後守 (3)
-
朝護孫子寺も生駒の宝山寺と同じで東斜面(奈良側)が本来の表玄関らしいですね。
廃止されて40年近くなりますが、奈良側の近鉄生駒線の信貴山下駅から出ていた東信貴ケーブルの方が、今の大阪側の信貴山口駅から出ている西信貴ケーブルより古くからあったそうです。
その近鉄生駒線も元は信貴生駒電鉄という鉄道で、信貴山の参詣を狙って近鉄生駒〜信貴山下〜関西本線王寺を結ぶ鉄道を作り、さらに。京都からも参詣客を呼び込もうと京阪枚方市〜近鉄生駒を結ぶ鉄道を計画してまずは平地の枚方市〜私市間を作りましたが、そうこうしているうちに近鉄が大阪側から登る西信貴ケーブルを作るわ、昭和恐慌が来るわで、計画は私市で立ち消えになって京阪交野線として京阪に譲渡されてしまいました。信貴生駒電鉄自体も近鉄が吸収合併。
世が世なら出町柳から京阪特急で枚方市へ30分、そこから王寺行の急行?か何かで信貴山下まで30分、ケーブルの急行に乗り換えて朝護孫子寺まで10分、てなことになってたかも・・・2020年2月25日 23:40 キューチャン (36)
-
豊後守さん、「聖徳太子七の暗号」という本によると、仏教推進派の蘇我氏に乗せられて?物部氏を亡ぼした聖徳太子は結果的に殺生を禁じる仏教に反することをしてしまい悩み苦しんだそうです。その鎮魂のために建てたのが四天王寺や善光寺なのだとか・・
2020年2月26日 10:56 kame (11)
-
キューチャンさん、この日のツアーの講師は参道マニアで大阪からと奈良からの参道の成り立ちについて説明があり、交野に結ぶ計画・・云々も聞いたのですが何故かよく判らず・・キューチャン先生の話でようやく判りました!参加者は参道マニアが1/3、鉄道マニアが1/3、私のような中高年のお寺めぐりが1/3でした〜
2020年2月26日 11:03 kame (11)
コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。